幸福な王子
ある町に金色の像がたっていました。
勇ましく宝剣をかかげる王子のすがたです。
金箔におおわれるその体は、朝日にそまると金色にかがやきます。
瞳は透きとおるような青いサファイア。
まっ赤なルビーがうめこまれる宝剣は、王家に伝わる勇者のしるしでした。
その像をまえにすると、あまりの美しさに夜盗も心うばわれてしまうのでした。
よく晴れた、さむい朝のことでした。
王子のあしもとでは、ツバメがつばさをやすめて寝ていました。
南の島のたのしい夢をみるツバメでしたが、晴れているのに、雨粒がぽたぽた落ちてくるのです。
まったくヘンなお天気だなぁ──
寝ぼけまなこをこすりながらツバメは空を見あげました。
青く澄んでいて雲ひとつありません。
おかしいなとくびをかしげたら、またぽつりぽつり雨粒がおちてきます。
けれども雨はふっていない。
あたりをきょろきょろ見わたして、ようやくツバメは気づきました。
その雨粒は、王子の瞳からこぼれる涙だったのです。
「え!? どうして泣いてるんですか? 王子さま、悲しいの?」
王子の像がうなずいた気がしました。
「僕を感じるのかい、ツバメくん? 僕はね、悲しみがぼんやり見えるんだ。苦しみがぼんやり聞こえてくるんだ。町のあちこちからね。空腹とか苦痛とか。恐怖とか失望とか。そういう感情がつぎつぎなだれこんでくるんだ。ずっとずっとむかし、城にすんでいたころは涙なんて知らなった。毎日がたのしくて、悲しみなんてどこにもなかった。僕はなんにも知らなかったんだ。でもいまはちがう。ここにいるといろんな景色がうかびあがってくる。美しさ。尊さ。醜さ。疚しさ。この町のすべてがね。そういう景色がとおりすぎるあいまあいまに、燃えつきそうないのちの灯もたくさんかんじるんだ。この町には悲しみも苦しみもあまりにおおすぎる。僕はこの町が好きだ。町の人たちの悲しさも苦しさも愛おしい。町の人たちを想うと、この心臓が鉛でもね、涙があふれてくるんだ」
心にしみるような、切なくて美しい響きでした。
そんなつもりではありませんでしたが、ツバメは王子に言っていました、私にお手伝いできることはありますか、と。
すると王子はツバメに言いました。
「町でいちばん高い塔のとなりに露天商をいとなむ家がある。そこに高熱にうなされている男の子がいる。もう半月も。薬さえあれば助かるが、そのお金がない。ツバメくん、この剣からルビーをぬきとって、その子の家にとどけてもらえないかい?」
ツバメはくちばしで剣をつついていました。
どうしてそうしているのか、ツバメはじぶんでもよくわかりませんでした。
この王子を悲しませてはならない、ツバメはそう思うのでした。
「川下の橋のあたりにあばら家がある。そこにおばあさんと二人で暮らしている女の子がいる。親が亡くなってから学校に行けなくなってマッチを売ってくらしをたてているんだ。飢えで重い病気になりかけている。ツバメくん、僕のこのサファイアの瞳をくりぬいて、その子の家にとどけてもらえないかい?」
王子の像は、ツバメにいくつもおねがいしました。
ツバメはさむさが苦手でしたがうなずきます。
冬がやってくるまえに南へ飛ぶつもりでしたが、どうしてか王子にたのまれると、ことわれなくなってひきうけてしまうのです。
「瞳がなくなったら見えなくなりませんか?」
「あの子に笑顔がもどるなら平気さ。それに僕のこの瞳は、悲しみしか見えないみたいだからね」
ツバメは生まれてからずっと、じぶんが生きるので精一杯でした。
見ず知らずのだれかのために飛びまわることなんて一度もありませんでした。
世界はつねにじぶんのためにあるのであって、世界はじぶんそのものでした。
それだから、だれかの笑顔、それをじぶんの喜びとして語れる王子が不思議でなりませんでした。
「ツバメくん、じつはちょっとまえから疫病がはやっているんだ。親が亡くなってお金にこまっている子どもがたくさんいる。僕の金箔をはがして、そういう子たちにくばってもらえないかい?」
くる日もくる日もツバメは王子の像の金箔をくちばしでつつき、お金にこまる子どもにとどけました。
冬がやってきても金箔をとどけました。
何日もこごえる北風がふきすさびましたが、ツバメはつきものにつかれたように、金箔をはがしつづけたのです。
ある日の朝、それまでの北風がうそのようにやみました。
暖かな日差しがふりそそぐなか、ツバメは王子のあしもとで気分がよさそうに囁きました。
「王子、あなたと出会えてよかった。あなたの笑顔は、私の喜びでした。こんなさむい町なのに、あなたといると、とてもあたたかかった。まるで南の国でした。生まれてよかった。心からそう思えました。あなたと出会えてほんとうによかった──」
ツバメはそれっきりなにも話さなくなりました。
王子のうがたれた瞳からは、はらはらと水滴がたれおちていました。
あふれる水滴は青く光りまたたいていましたが、それを見た人は一人もいませんでした。
やがて水滴がとぎれるころ、王子の像はくすんで黒ずんでいました。
汚くみすぼらしくなっているからと、やがて王子の像のとりこわしがきまりました。
町の中心にあって景観をそこねるという理由から反対する人はいませんでした、子どもいがいは。
子どもたちは口々にうったえました。
枕元に王子さまがあらわれて病気や飢えからすくってくれたと。
けれどもいったん回りだした重い歯車はそうかんたんにはとめられません。
やがて王子の像はこわされて、町はずれの炉にはこばれました。
こわれた像のそばにツバメの死がいもありましたが、職人はいっしょに炉にほうりこみました。
謎のままにおわったのが、鉛のかたまりでした。
溶けたあとの高炉のなかに、鉛のかたまりがのこっていたのです。
来る日も来る日も炉の職人は溶けない鉛のかたまりをしらべました。
知りたい気持ちがつよすぎてねむりもわすれて研究にあけくれたのです。
何年も何年も。
やがて炉の職人は溶けのこりの鉛からじょうぶな鋼をうみだしました。
鋼の人気はじわじわひろがって町におおきな鉄鋼業がうまれました。
いつからか町は笑顔であふれるようになっていたのです。
花を見つめる子どもの瞳。鳥を愛でる子どもの瞳。歌をうたう子どもの瞳。
きらきら輝くたくさんの瞳は、青いサファイアのように美しく澄んでいました。
終