昔話

逢魔が時に迷い込む草鞋売りの話【時喰いばばあ】

 

古来から夕方の薄暗い時間帯は「おうまがとき」(逢う魔が時)(大禍時)とよばれ、えたいのしれない魔物や妖怪に出会ったり、いちじるしく不吉な災禍を被りやすくなる時間であると信じられてきました。

太陽(黄)が昏くなる黄昏時になると異界と現実とをつなぐ時に裂けめがうまれ、そこから這いだす魔物や妖怪がうごめいて現実に禍がもたらされるとされてきたのです。

草履売りのある男が、その「おうまがとき」にえたいのしれない何かと出会い、あらがえない災禍の渦に巻き込まれていくお話です。

ある村に、貧しい夫婦が住んでいました。

妻がわらじを編んでは夫が売りに出して日銭を稼いでいました。

ある夏の夕方のことです。

夫が売れ残りのわらじを持って家に帰ると、妻が倒れています。

頬が真っ赤で、触れると熱いのです。

もともと体の弱かった妻でしたが、熱を出したことはありませんでした。

それだけに、夫は驚きと不安でいっぱいです。

あわてて桶に水を汲んで、雑巾を冷たく濡らして額にあてますが、すぐに熱くなります。

水を飲ませようにも飲めないようで、お椀をくちにあてても頬をたらたら伝うだけです。

はじめ苦しそうに息をついていましたが、やがて妻はぐったりしました。

いくら呼びかけても、聞こえているのか聞こえていないのかわからないようすなのです。

薬さえあれば──

夫はそう思いますが、お金がまるで足りません。

それでも妻に声をかけると、夫はあるだけの銭をにぎってとなり村の薬屋をめざしました。

しかし案の定、門前ばらいです。

途方に暮れながら帰る道すがら、見かけない小屋があるのに夫は気づきました。

ひらすら走ったから見落としたのかもしれない、そうぼんやり思って小屋のまえを通りかけたとき、

奥方様にお薬をさしあげましょう

そう言うのです。

声の主は老婆です。

いつのまにか、小屋のまえに背の曲がった老婆がいたのです。

老婆がそこにいることよりも、じぶんに妻がいて、その妻が病床にあることを知っていることに驚きました。

なぜ知っている、あんたは何物だ

夫が疑いのまなざしを向けると老婆が言います。

わしは薬屋です。あなた様は銭をにぎって走っておられた。あれほど必死なのは、親兄弟か妻子のためと思いましてな。見たら、あなた様のぞうりはとても丁寧に編まれてある。奥方様でしょう。意匠からして若い女子が編んだと思いましてな

老婆は気味がわるいくらい知っています。

夫はなおも疑いました。

妻に、なぜ薬をくれる?

老婆はうなずきます。

疑うのもとうぜんですな。もちろん、ただではありませぬ。銭が欲しいが、あなた様はあまり銭をお持ちではない。そこでじゃ。わしに「時」をくだされ。銭はいらん。時じゃ。時をくれ。時をくだされば、奥方様の病を治す薬を渡そう。万病に効く薬じゃ。これがあればたちどころに治る。しかしなければ奥方様は早晩死ぬる

夫はなおも疑います。

どうして信じられる? 「時」をくれ? かりにくれてやるとして、どうやってもらうのだ

老婆は笑います。

容易いことじゃ。あなた様が心で許せばいい。このわしに「時」をくれてやると。それだけじゃ

夫は考えました。

じぶんの「時」をくれてやるということは、じぶんの寿命が縮むということだろうか──

縮むとしたらどれくらいなのだろうか──

夫の心を見透かしてか、老婆が言います。

あなた様のではない。奥方様の「時」だ。病のていどが重ければ「時」も重くなるが、どれくらいの「時」かは、わしもわからん。奥方様の「時」をわしにくれると、あなた様が心に念じれば万事叶う

夫はひどく迷いました。

このままでは妻は死ぬかもしれないと老婆が言う。

病は軽いかもしれないが、重いかもしれない。

薬が欲しくて「時」を渡せば寿命がちぢむ。

だが、寿命はちぢむが生きられる。

死んでしまっては、もともこもないではないか。

心が揺らいでいて念じたつもりはありませんでしたが、心の奥底が認めていたのでしょう、老婆が言いました。

たった今、あなた様の心が許した、奥方様の「時」をくれるとな。「時」の対価、これが奥方様の薬じゃ

夫はくびをふりますが、力強さがありません。

老婆は神妙な面持ちで薬の入った麻袋を渡したのでした。

夫はひっしに走って家にとびこみました。

薬を煎じるあいだにも、ほんとうに効くのだろうかと、心の奥では疑っています。

ぐったり横たわる妻の上体をそっと抱き起こして、薬を白湯で飲ませます。

ゆっくり横に寝かせると、しだいに妻の顔つきに生気がもどってくるのがわかりました。

薬が効いたのです。

夫は安堵のため息をもらしましたが、心の奥でくすぶる疑いは晴れません。

決めつけは良くない肝に銘じながらも、老婆のすがたがうさん臭いのです。

高名な薬師であるとはとうてい思えないのです。

翌朝、起きあがれないまでも笑顔で会話できるほど回復した妻を見てから、夫は老婆の住む小屋をたずねました。

小屋はもぬけの殻でした。

あるのはガラクタばかり。

ここで万病に効く薬を作れるはずがあるまい妻の病はただの風邪で、じぶんが慌てふためいて大騒ぎしただけだったのではないか

そう思うと、老婆のうさん臭さも合点がいくのでした。

引き戸を締めて小屋を出るとき、框の奥に風変りな大きな壺があるのに気づきました。

水をためるにも老婆一人で使うにはあまりに大きいのです。

夫は壺に近って、抱えこむようにしてなかをのぞきました。

水です。

底のほうで、黒い水面が微かに揺れています。

その波紋は、ときおりぼんやりと夫の顔のようなものを暗く浮かびあがらせています。

喉がひどく渇きましたが、虫が何匹もふちを這いまわっていました。

とても飲む気にはなれません。

なぜ来てしまったのかと後悔しながら、夫は小屋をあとにしました。

そうして妻に元気が戻って、夫は小屋のことも老婆のこともその日が訪れるまで忘れてしまうのでした。

子を授かったと聞いたときの夫の喜びは、他に喩えようがないくらいのものでした。

はしゃぎまくる夫を見ながら腹のなかで芽吹き始めたいのちを想うと、妻もこれまでにない幸せを覚えたのです。

二人の暮らしは変わらず貧しいものでしたが、心は満たされていました。

ある夏の夕方、夫は不安な記憶を呼び覚まされました。

扉を開けると、妻が喘ぎながら床を這っていたのです。

慌てて飛びついて声をかけると、安堵したのか苦しそうな息が途切れます。

微かですが息はあって、脈もあります。

これは何年か前と同じではないか──

いや、違う。こんどは妻の腹に子もいる──

夫は悩みました。

薬を買う銭はありませんが伝手はあります。

しかし薬があったとしても妻の腹に子がいます。

薬の効き目が強いとなると、子になにかあるかもしれません。

そうこう悩むあいだにも、うでのなかでみるみる妻がぐったりしていくのがわかりました。

夫は妻をねかせると、一目散に走りました。

老婆の小屋です。

汗をぬぐってひた走ると、軒先に立つ老婆が見えました。

夫が着くなりわけしり顔で、

薬じゃな。「時」をもらうがよろしいかな

そう言います。

薬がほしいが腹のなかに子がいるんだ

夫が即答するなり、老婆はうなずきます。

案ずるな。大陸渡来の万障を排する薬じゃ。たちどころに治る。ただし「時」は二人ぶんじゃ。お子のぶんもな

子どものぶんまでとは以前と話がまるでちがう。

夫は食いさがります。

妻の病を治すのにどうして子の「時」までいる。おかしいではないか。おれの「時」では駄目なのか?

老婆は冷たいまなざしで夫を睨みます。

くどいのぉ。「時」は薬の治癒との交換じゃ。おまえ様ではなく、奥方様とお子の病との交換じゃ。嫌なら帰るがよい。わしはかまわんぞ

取りつく島もない老婆を前に、夫はじぶんの立場の弱さを知りました。

あくまで乞い願う側なのです。

すまなかった。二人の「時」をゆずるので薬をくれ。頼む

夫が頭をさげると、老婆はうさん臭い笑みを浮かべて袋をさしだしました。

奥方様がお飲みになればお子にも効く。ご安心召され

受けとるなり夫は袋を握りしめて走るのでした。

薬がたちどころに効くのは知っていました。

薬を煎じて飲ませると、妻はみるみる良くなりました。

子もぶじです。

妻の腹のなかで元気に足を蹴っています。

妻が以前より細くなったのは病のせいであるとして、大陸渡来の万障排する薬というのは本当だと夫は得心したのでした。

やがて子が生まれ、よちよちと歩き、片言で話すまでに成長しました。

夫にとって、毎日が奇跡の連続でした。

傍らでは妻が微笑んで、子がまっすぐなまなざしでじぶんを見つめてひっしに話す。

これが奇跡でないならいったい何なのだろうと、これまで信じたこともない神さまにひたすら感謝の想いがこみあげてくるのでした。

ところがです。

ある夏の夕方、ひさしぶりにわらじを十足も売った夫が意気揚々と家に戻ると、妻と子が倒れています。

二人とも身動きしません。

顔は真っ青。

半ば目を見開いたままなのです。

慌てて駆け寄って二人を抱き起しますが、呼びかけても返事がありません。

辛うじて脈はあります。

うさん臭い老婆の顔が思い浮かびました。

走るしかない、そう思うのですが、あの薬をもらっても治るのはいっときなのではないか、また病に罹るのではないかと、不安と疑いの雲が心を覆うのです。

夫は走っていました。

病を完全に治せなくても薬に頼るほかに手はないのです。

はたして小屋には老婆がいて、「時」と薬を交換するなり夫はまた走りました。

薬を煎じて白湯でくちに流しこむと、むせ返して苦しみますが、やがて二人に穏やかな寝息が戻ります。

夫は安堵しますが、それも束の間でした。

夜が明けて目が覚めると、かたわらの妻が微かに呻いているのです。

子も同じです。

どういうことか──

薬が効いていない──

夫は二人に水を与えて声をかけると走りました。

はたして小屋には老婆がいて、「時」と薬を交換します。

薬を煎じて白湯でくちに流しこみます。

むせ返しますが二人に静かな寝息が戻ります。

けれども夫は穏やかではありません。

「時」が足りないのか──

妻も子も「時」を失っているから薬が効かないのか─

夜が明けると、やはり病がぶり返します。

夫は走って老婆に会うなり聞きました。

薬が効かない。「時」と交換したはずだ。どうしてなんだ

老婆は冷たいまなざしで夫を一瞥します。

死んでおらんじゃろ。薬は効いておる。安心召されよ

夫は納得がいきません。

しかしすぐ元通りだ。病が勝っている。今にも息が絶えそうだ。どうにかしてくれ

夫があたまをさげると、老婆は蔑むような目をむけました。

そうして背をむけます。

お引取りくだされ。あなた様にお渡しできる薬はもうない。「時」が足りん。つまりそういうことじゃ

嘘をつけ。隠し持っているはずだ。どこにある。薬はどこだ。「時」ならおれのぶんをやる。好きなだけくれてやる。だから薬をだせ

夫はそう言うと老婆につかみかかりました。

身悶えしながら叫び声をあげる老婆の胸倉を鷲づかみにします。

薬を出せと凄みを利かすと、どこに力があったのか、老婆はかたわらにある鉄製の薬研の碾き具をつかみとって夫の顔に叩きつけたのです。

鐘楼で殴られたような衝撃が走ります。

夫は呻きながら老婆といっしょに崩れ込みました。

ぶつかった何かが倒れて割れますが、すぐにしんと静まります。

驚いた鼠が走りまわる以外に動くものはありません。

老婆は倒れたときに角に頭部をぶつけたのでしょう。

黒ずんだ血だまりがじわじわ広がり、框の縁から滴り落ちていました。

血まみれの夫は額の肉がえぐれて白い骨が見えているのでした。

激しい痛みで目覚めたとき、すでに老婆は絶命していました。

かたわらには血糊のついた薬研の碾き具がころがっています。

夫はよろよろと起きあがると、老婆の衣をさぐりました。

薬はありません。

戸棚や引出もあらためますが見あたりません。

化物だろうが異形だろうが、薬を作れるのは老婆だけです。

目を剥いたまま框に倒れている老婆を眺めていた夫は、奥に壺があるのに気づきました。

眩暈を堪えながらふらふら歩み、壺をのぞきこみます。

壺の半分はある水の底で、黒い水面が微かに揺れています。

その波紋は、ときおりぼんやりと顔のようなものを暗く浮かびあがらせています。

ときおり額から血が滴り落ちると、顔のようなものは滲んで消えますが、また顔が浮かんできます。

はじめそれはじぶんと思っていましたが、微笑む妻や子のようでもあるのです。

気を確かに保つので精一杯でした。

夫はよろめきながら歩き、倒れ込んでは起きあがりました。

老婆の死骸、血糊のついた碾き具、壺の水に浮かぶ顔。

道すがら、それらの景色が断続的に思い浮かびました。

血まみれで動かない老婆は「死」、横たわる妻と子は「生」

しかしそれがもう妻と子でないのは一瞬でわかりました。

わかりましたが、夫は一心不乱に頬を撫でました。

何度も妻と子の名を呼んで撫で続けるのです。

いったいどれくらいの時が過ぎたのでしょう。

夫はふと、これはきっと長い眠りなのだと思いました。

息のない眠りなのだと。

妻と子の顔にたかる蠅をふりはらい、夫はふらつきながら外へ出ました。

時は丑の刻になり暗闇ですが、夫には森も道も奇妙に白んで見えます。

老婆の死骸、血糊のついた碾き具、壺の水に浮かぶ顔。

息のない眠りにつく妻と子。うるさい蠅。

呪いのように思い浮かぶそれらの光景は、どこか遠くの出来事のように感じました。

夫は小屋にたどり着くと、暗がりのなかを死んでいる老婆に歩みより、屍骸を揺すって呻きました。

おれは許さんぞ! 返せ、奪った「時」を返せ! ぜんぶだ、ぜんぶ返せ!

悔しさと虚しさ、腹立たしさと悲しさ、それらが混じり合って火薬のように火を吹いたのです。

強く揺さぶるたびに、不自然にねじれたまま固まったうでが、となりの戸棚にうるさくぶつかります。

どこだ! どこに隠した!「時」はどこだ! 化物め!

ひとしきり叫ぶあいだに、震えるうでがみるみるうちに重くなります。

畜生!

そう喚くなり、目を剥いたままの屍骸は音を立てて床に落ちました。

すると、微かに声が聞こえる気がしました。

老婆ではありません。

すぐ近くです。

笑っているような、歌っているような声なのです。

いよいよお迎えが来たのかと夫は思いました。

声は、だれもいない框の奥の壺のほうから聞こえてきます。

夫は這いながら壺に近づくと、しがみついてなかをのぞきました。

その光は、ときおりぼんやり顔のようなものを浮かびあがらせました。

夫は目を瞠りました。

妻と子なのです。

妻が笑って、子が歌っているのです。

まるで理解できませんが、そうだったのかと、どうしてか夫は思いました。

待っていろ、すぐに助けるからな──

息を荒げて死に物狂いで壺をよじ登ると、夫は手を伸ばして妻と子を引き上げようとしましたが、滑ってそのまま壺に落ちたのでした。

すると、暗くて何も見えないはずが、妻と子がそこで微笑んでいるのです。

ねえ、新しい草履を考えて編んでみたのよ

妻が夫の右手をとります。

ねえねえ、新しいお歌を上手に覚えたんだよ

子が夫の左手をとります。

ねえねえ、お父ちゃん、泣かないで、お歌を聞いておくれよ

夫がうなずくと、子がはしゃぎながら歌うのです。

それからというもの、ひと気のない村はずれの小屋から、夕方や宵の刻になると楽しそうな歌や笑い声が聞こえてくると噂されました。

その小屋は誰も近よらずに気味わるがられるようになったとのことです

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あきまる

会社員のパパです。 趣味は投資と料理とゲームと書き物。 基本インドアですが秋冬春はジョギング、 夏は海でシュノーケリングを楽しんでます。

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